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太田靖久『サマートリップ』“そういう考え方もないわけではない。”

デパートの宝飾売場で出会った、少し不思議な女性・真帆。主人公の「僕」は、長年付き合った婚約者がいながらも、抗いがたい魅力で彼を惹きつける真帆を選びます。

『サマートリップ』は、そんな二人が過ごす一夏の出来事を描いた物語です。しかし、これは単なる恋愛小説ではありません。真帆が語る過去の断片的なエピソードや、彼女の故郷への旅を通して、人の「記憶」や「思い出」という、曖昧で、けれどどうしようもなく愛おしいテーマが、静かに、そして鮮やかに描き出されていきます。

読み終えた後、きっとあなたも自分自身の忘れかけていた大切な記憶を、そっと取り出したくなるはずです。今回は、そんな不思議な余韻を残す小説『サマートリップ』の魅力をご紹介します。

太田靖久『サマートリップ』

サマートリップ (すばる Digital Book)

あらすじ

そういう考え方もないわけではない――。婚約者とデパートの宝飾売場に出かけた僕は、ある女の子と出会う。真帆と名乗った彼女の誕生日にホテルの一室で、祖母そして父親との奇妙な思い出話を聞く。その思い出を辿り富山の港町に旅立つのだが……。理屈抜きに惹かれる女性に導かれ、過去と現在、ネガとポジが入れ替わるひと夏の旅に出る物語。

引用元:Amazon

作品の魅力・ポイント・感想

謎めいたヒロイン・真帆が持つ独特の価値観

この物語の魅力は、なんといってもヒロインである真帆のキャラクターにあります。彼女は、掴みどころがなく、どこかミステリアスな雰囲気をまとっています。

主人公の僕と婚約者が結婚指輪の素材で揉めていると、彼女は「それぞれ別々にゴールドとプラチナを選ぶのがいかがですか?」と、冗談とも本気ともつかない提案をします。そして、そんな彼女の考え方の根底にあるのが、「そういう考え方もないわけではない」という言葉です。

この言葉は、物語の中で何度も登場し、彼女のしなやかな価値観を象徴しています。私たちは普段、物事を白か黒か、正しいか間違っているかで判断しがちです。しかし真帆は、そんな固定観念から自由で、あらゆる可能性を柔らかく受け入れます。

彼女が過去に旅した海外の地で出会った4人の男性とのエピソードを語る場面でも、その独特の感性は光ります。一つ一つの出来事を淡々と語る彼女の姿は、読者に「彼女は一体何を考えているのだろう?」という興味を抱かせ、物語の奥深くへと引き込んでいくのです。まるで村上春樹さんの小説に出てくる女性のように、ミステリアスでありながら、確固たる自分だけの世界を持っている、そんな真帆の魅力から目が離せなくなります。

「説明」できない想いと、記憶の「賞味期限」

物語の冒頭で、主人公の「僕」は「説明」という言葉をとても重要視していました。誰かに理由を尋ねられた時に、相手を納得させられること。それが、彼が世界と向き合うための鎧のようなものだったのかもしれません。

しかし、真帆と出会い、婚約者と別れた理由をうまく「説明」できない自分に気づきます。理屈では割り切れない、どうしようもない心の動き。この小説は、そんな「説明」できない感情こそが、人を動かす原動力になることを丁寧に描いています。

そして、もう一つの重要なテーマが「記憶」です。真帆は僕にこう問いかけます。

「記憶にも食べ物みたいに賞味期限があると思う?」

覚えていたい大切な記憶ほど、時間とともに薄れていってしまう。そんな切ない事実に、共感する人も多いのではないでしょうか。物語の終盤、真帆がずっと守り続けてきたある「秘密」が明かされるのですが、それはこの「記憶の賞味期限」というテーマと深く結びついています。彼女にとってのある食べ物が、色褪せていく記憶を呼び覚ますための、大切なお守りだったのです。この謎が解けた時、彼女の不思議な言動の数々が、切ない一本の線で繋がります。

あなた自身の「思い出」の扉を開く物語

この物語を読んでいると、不思議と自分自身の過去の記憶が呼び覚まされるような感覚に陥ります。

真帆が夏の限定アイスを食べることで、とある思い出と繋がったように、私たちにも、大切な人の記憶と結びついた「鍵」のようなものがきっとあるはずです。それは、特定の食べ物かもしれませんし、音楽や香り、あるいは何気ない風景かもしれません。

特に、会いたくても自由に会うことが難しくなった時間を経験した私たちにとって、思い出の価値は以前よりも増しているように感じます。ずっと会えていない、大切な人のこと。もう二度と会うことができなくなってしまった、愛する人のこと。

この物語は、そんな心の中にしまってある大切な記憶に、もう一度触れてみたいと思わせてくれるきっかけになります。読み終えた後、自分の記憶の引き出しをそっと開けて、懐かしい思い出に浸りたくなる。そんな優しい時間を与えてくれるのです。

おわりに

太田靖久さんの『サマートリップ』は、一夏の少し変わった恋愛を描きながら、その奥に「記憶」「喪失」、そして「家族の愛」という普遍的なテーマを忍ばせた、味わい深い一作です。

なぜ人は、忘れたくない記憶を忘れてしまうのか。そして、忘れてしまった記憶を、どうすれば思い出すことができるのか。その答えを探す旅に、あなたも出てみませんか。

「『説明』しないで。今度は私があなたに黙ってついて行くから」

真帆が僕に告げるこの言葉のように、理屈や説明を抜きにして、ただ心を委ねて読んでほしい。夏の日の読書にぴったりの、切なくも美しい物語です。