
「結婚」と聞いて、私たちはどんなイメージを抱くでしょうか。恋愛の末に結ばれ、愛を育み、肉体関係を持つ。それがごく自然な「夫婦」の形だと、多くの人が考えているかもしれません。しかし、その常識をひっくり返し、「性」を排除したところに成り立つ結婚があったとしたら?
“普通”の世界を鮮やかに反転させてみせる作家、村田沙耶香さん。その短編『清潔な結婚』は、まさにそんな「もしも」の世界を描き出し、私たちに「家族とは何か」を鋭く問いかけます。
村田沙耶香『清潔な結婚』
『殺人出産』所収作
あらすじ
家庭内に「性」を持ち込まないと誓った夫婦。性欲は外の恋人で解消し、互いの関係は清浄に保つ。子供を望む二人が選んだのは、奇妙な「清潔な繁殖」だった。究極の純愛か、それとも…。
作品の魅力・ポイント・感想

「家族」だから
物語の主人公である夫婦、ミズキと信宏は、婚活サイトで出会いました。彼らが互いに惹かれた理由は、プロフィールに書かれた「清潔な結婚希望」という一文。彼らは、恋愛感情や性的な欲望が家庭に持ち込まれることを「不潔」だと感じ、それらを完全に排除した、まるで仲の良い兄弟のような穏やかな関係を望んでいたのです。
驚くべきことに、彼らはそのルールを徹底します。家計や家事はきっちり折半。互いの性欲は、外に恋人を作ることで解消し、家庭内には決して持ち込まない。傍から見れば歪んでいるように思えるかもしれませんが、彼らにとってはそれが最も快適で、理想的な関係でした。
実はこれ、あながち非現実的な話ではないのかもしれません。長く一緒に暮らすうちに、パートナーに対して性的な感情が薄れていくのは、近親相姦を避けるための生物学的な本能だ、という説を聞いたことがあります。そう考えると、彼らの「清潔な結婚」は、人間の本能を先取りした、ある意味で非常に合理的な形だとも言えるのではないでしょうか。「こうあるべき」という社会の圧力を軽やかに飛び越えて、自分たちだけの心地よい関係を築いている彼らの姿は、少し羨ましくさえあります。
究極の選択「クリーン・ブリード」
そんな彼らにとって、最大の課題は「子供」でした。性交渉を拒絶しながらも、二人は子供を持つことを強く望んでいたのです。そこで彼らがたどり着いたのが、「クリーン・ブリード(清潔な繁殖)」と名付けられた、少し怪しげなクリニックでした。
このクリニックが、とにかく強烈です。ラベンダーの香りが充満し、クラシック音楽が流れる真っ白な部屋。露出の少ない検査着に着替えた夫婦は、リクライニングチェアに座らされ、看護婦たちの「治療」を受けます。その光景は医療というよりは、もはや何かの儀式か特殊なサービスのようです。
「命の流れが旦那様の身体に到達いたしました」「電磁波で高橋さんの命の流れを促進しております!」大真面目な顔で叫ぶ看護婦たち。しかし、やっていることは銀色のカップで夫のペニスをしごいているだけ。そしてクライマックスでは、プラグを差し込むように、夫のペニスがミズキの膣へと挿入される……。
しかし、夫の信宏は施術後にこう言うのです。「君と性行為をしたという感覚がまったくないんだ。僕たちの間に『性』が持ち込まれなかったっていうことなんだから」。彼らにとっては、この馬鹿げた儀式こそが、自分たちの「清潔」さを守るための唯一の希望だったのです。この滑稽さと切実さの同居こそ、村田沙耶香作品だと言えるでしょう。
「普通」が揺らぐ瞬間の気持ちよさ
村田さんの作品は、いつも私たちに「あなたの信じている“普通”は、本当に“普通”なの?」と問いかけてきます。この『清潔な結婚』も例外ではありません。
最初は「新しいスタイルの結婚生活かな」と思いながら読んでいても、いつの間にか、彼らの純粋さに引き込まれてしまいます。互いを尊重し、自分たちのルールを何よりも大切にする。その姿は、形は違えど、確かに一つの「家族」の姿です。
夫の愛人から性的な写真が送りつけられてきても、「弟の自慰現場を目撃してしまったような、くすぐったい生々しさ」と感じるミズキ。夫の性的趣向の写真を見て、「彼の性のパートナーが自分ではなくてよかった」と心底安堵するミズキ。その感覚は、一般的な夫婦関係の物差しでは到底測れません。
しかし、彼女のその冷静な視点を通して物語を追体験することで、読者である私たちもまた、「結婚=恋愛+セックス」という凝り固まった価値観から解放されるような、不思議な爽快感を味わうことができるのです。自分たちが当たり前だと思っていたものが、ガラガラと音を立てて崩れていく。その瞬間こそ、村田作品を読む醍醐味なのかもしれません。
おわりに

『清潔な結婚』は、一見すると突飛な設定の物語です。しかし、その根底にあるのは、「自分にとっての幸せとは何か」という、私たち一人一人に関わる普遍的なテーマです。
他人の価値観に合わせるのではなく、自分たちが心から「心地よい」と思える関係を築くこと。たとえそれが、誰にも理解されない奇妙な形だったとしても。ミズキと信宏の「清潔な結婚」は、そんな自分たちだけの聖域を守り抜こうとする、一つの純愛の物語として読むこともできるのではないでしょうか。
あなたにとっての「清潔な関係」とは、どんなものでしょうか。この物語を読んだ後、ぜひ一度、考えてみてください。
